Little Bean Island(小豆島)からイギリスへ
中学2年(14才)のとき、夏祭りの帰り際に父からイギリスの留学先が決まったことを告げられました。
底知れないワクワク感と同時に全く想像できない未知の生活にどう思えばいいのか、何が正しい感触なのか分からないままでいました。
ただ、「さびしい」「こわい」「心配」という感覚は一切ありませんでした。
ワクワク感のみ!
なぜなら私はずっと前から海外へ行く事を望んでいたからです。
【スタンドバイミーに憧れて】
“スタンド バイ ミー”という映画をご存知ですか?
若くして果敢なく亡くなってしまったリヴァーフェニックスの代表作ですよね。
映画の背景になっているのは、平凡なアメリカの田舎町、その生活が退屈で登場するティーン達は“家出して事故死した若者の死体探し”に出かける青春ストーリーです。
私が住んでいたのは小豆島。その映画の背景より更に何もない田舎。すっかり頭の中では自分がおかれている“平凡過ぎる”環境がかぶり、登場する若者たちに感情移入しました。
なので、私にとって島を出ることに振り返るものは何もありませんでした。
(でもスタンドバイミーはアメリカで,私が行ったのはイギリスなんですけどね 笑)
【イギリスのインターナショナルで世界にもまれる】
留学先はイギリスにある寮制インターナショナルスクール。
卒業後知ったのですが(苦笑)かなりの名門!
TASIS England (中2から高卒までいた学校)
イギリスにある寮制学校ベスト5として記載
http://world-schools.com/the-5-best-boarding-schools-in-the-uk/
初日から4人部屋へと放り込まれる。
ルームメイトはカナダ人、スペイン人、イタリア人。
即“英語漬け”の生活が始まりました。ある程度英語は好きでしたが、映画からマネしたフレーズ(特にスラング)は即ネタ切れになり、どうしようもない状態。
“What?”“I don’t know”などで理解できない旨を伝えながら、とりあえず“ついて行って状況から判断する”という繰り返し。
まるで動物の様な感覚が研ぎ澄まされていくのを感じました。それは留学した誰もが体験することでしょう。行く前、行った事がない人は、
「どうにかして知っている言葉を寄せ集めて話していくんだろうな」と思うかもしれませんが、
実際それでは追いつきません。
そんな時間ないですから“とっさに判断して自ら動く”という事を繰り返さなくてはいけません。ほぼ90%くらい何しにいってるのか分からないままついていって、“あ、そういうことね”という感じです。
【2ヶ月くらいで日常英会話はOK】
友だちについていって、
“遊ぶ”
“他の友だち同士が話しているのを分かってるフリして聞く”
“一緒に食事する”
“勉強する(するフリをする)”
とかをずっと繰り返しているうちに、ふと気づいてきます。
“これは〜〜って意味だな、なので使える機会があれば同じ事を言ってみよう”
という様に“応用”することを覚えます。
その繰り返しです。
そうしている内に2ヶ月ほどで、ある程度生活には困らないレベルの英会話力は身に付きました。
たったの2ヶ月です。
日本でも“ただ〜〜をすれば、あなたも3ヶ月でペラペラ!”
とか言う売り文句の教材が沢山ありますが、
私は知っています。
確かにその期間で英会話をできる様にはなれます。
ただ、同時に“〜するだけで…”っていう部分は全くのウソです。
海外留学生みんな怒りますよ。っていうか怒ってます。
後、そこに落とし穴?もあります。
なぜなら、2〜3ヶ月で身に付く英会話レベルは、
やはり“その程度”だからです…
その程度 =“なんとなく毎日が過ごせるレベル”です。
ちなみにこのレベルが、よくある英会話業界で言う“ペラペラ”です。
個人的にこの表現(ペラペラ)は、やたら抽象的であまり好きではありませんが…
このインターナショナルスクールを卒業後、大学へ進学し、社会人の年齢まで海外で生活することになるのですが、私はその間、英語レベルにおいて3度挫折しました。
【語学において挫折は必ずある】
1度目
もちろん留学当初。
“10代で生活する上での英語力”が求められ、そこを上記の様に克服しました。
2度目
インターナショナルスクールでいた後半、そして大学進学後です。
そこでは、
“学問においての英語”で挫折しました。やたら難しい…
進学していくにつれレベルの高い“単語力”、“読解力”、“作文力”が求められますし、それは成績に直に響きます。
授業では数々の文学作品を読む必要があります。それにおいて意見を述べ、感想文を書きます。それを可能にするには、
—“教養を示すために必要とする英語力”が求められました。
3度目
20代に社会人として様々な人と毎日接し“仕事”をしだしたときです。
専門用語や、最低限必要な請求書(invoice)、領収書(receipt)は頻繁に使いますし、それなりの“大人としてマナーのある会話法”が求められます。
勧誘的な表現や、責任を示す表現もお客には伝えなければいけないですし、ただ好き勝手な会話だけでなく“ビジネス感”や、少しへりくだった表現が必要です。これには教科書などは無く“体験”“感覚”からしか学べません。
よく勘違いされる様ですが
海外留学することは“
英会話を学びにいく”のではありません。
カッコイイわけでもありません(実際ドロドロな部分沢山あります)。
誰にも経験できない、“あなただけの経験値を高める”ために行くのです。
その“経験値を得るため”に私は本当に様々な人と交流しました。
一切日本人との交流を打ち切った時間も長くありました。
世界各国からの富裕層から貧しい人、経営者からビジネスマン、実業家からフリーター、アーティストからミュージシャンといった人達と時間を分かち合いました。
並行して身に付いたのが人間に対しての“洞察力”です。
当初は英会話力を“盗む”ためにじっと観察していた彼らですが、そうしているうちに、
“〜から来ている人達はこういうのが好き”
“〜っていう人種にとって、こういうのはタブー”
“〜の人達にはこのネタは鉄板”
“〜人はノリ出したら、ここまで行っちゃう”など。
こういうのは本当に“微妙”な感覚です。
多分同じ場所にその人達といても分からない人もいるでしょう。
もちろん人間は十人十色ですが、来ている国や文化背景から共通していることは多々あります。たまに国は関係なく、経済背景、教養だったりします。
これはその後の私の人生にとって大きな影響を及ぼしましたし、非常に役立つ“スキル”となりました。
今でも、どの国の人と会おうが“数秒”で打ち解け合える自信があります。
それはどの様な話し方をすればすぐ相手が心を開いてくれるかというのを本質レベルで理解できる様になれたからです。
【アメリカで知る人種間の壁】
ジョージア州立大学
イギリスのインターナショナルスクール卒業後、アメリカの大学へ進学しました。
そこで愕然とした体験は、歴史の長い「人種間の壁」でした。
イギリスのインターナショナルスクールでこれだけ多くの人種と交流し、英会話スキルもあり、多国籍の人達との生活に慣れていた私は、アメリカといった“自由の国”で、ここまで人種の壁が厚いとは思ってもいませんでした。
それもそうかも知れません。進学先はジョージア州という非常に保守的で、建国当初から黒人奴隷により街作りをしていった様な場所でした。
そこに着いた途端、私は現地の人達の目に、
“マイノリティー”(少数派)として映っていたのです。
アメリカでは白人が“マジョリティー(多数派)”で、その他は皆“マイノリティー(少数派)”で、その中でアフリカ系は黒人、ラテン系はブラウン、アジア系はイエロー(黄色人種)と分けられていて、その壁は非常に厚く感じました。
住んだシェアハウスも“白人区域”と“黒人区域”の丁度境目にあった白人区側の小さな安い家でした。
白人の同級生たちとシェアハウスしましたが、当初皆お金がなくとりあえず安い家を探した結果、そういう場所しかありませんでした。
“道を渡れば”反対側が“黒人区域”、貧しい区域でした。そちら側の方が私たちより更にボロボロの家で、日中からお酒を飲んで家の前のポーチで多くの地元の人達がたむろしていました。この生活水準の差の生々しさに驚きましたが、それがそこでは当たり前の現状です。
ちゃんと理解して頂きたいのですが、私が言いたいのはここで住んでいた人達が黒人であり、それが原因でこういう貧しい環境になった、ということでなく、社会のシステムが彼らをそういう環境でしか生きれないようなものにしてしまったということです。
大学生活でも、その様な“人種の壁”は感じました。
授業中では隣に座り、互いに冗談を飛ばしたりする“クラスメイト”でも、一歩教室を出た場所でバッタリ会い、挨拶をしても完全に無視される様なことはよくありました。
更に驚いたのはバイト先での事です。州立大学だったその大学は大きなイベント会場もあり私はそこの調理場のバイトをしたことがあります。大体皆キッチンの皿洗いから始めます。数百人も入る様な会場ですので、調理器具の数は半端なく、お鍋も自分の身体が丸ごと入るほどのサイズのものがズラリとならび、それを一晩中洗っていきます。
私がそこに入った同期に白人の学生も男女1人ずつ入りました。女の子は数日の皿洗い後、即“ホール”のウェイトレスになりました。そして私と同じ日に始めた白人の男の子も2週間後には、ゲストの前で働くウェイターとしてホールに行きました。
夜な夜な大量のお皿やドデカイ鍋を洗い続けながら、いずれ私もホールに行くのだろうと期待していました。その仕事の方が楽でしたし、誰とも話さず洗い物をするより、パーティーの様な華やかな場所で人とお話しができる仕事をしたかったからです。
2ヶ月以上経っても同じ仕事をしており、ふと気づいて周りを見渡せば、そのキッチンで働いているアジア人は唯一私、その他はアフリカ人の留学生2人、そして地元の黒人のおじさんやおばさん達でした。正に“マイノリティー”しかその現場にはいませんでした。そのアフリカ人留学生は私よりはるかに前から働き出していたのですが、ずっと皿洗いをしていました。
「いつかはホールでお客さんの対応とかしたいと思わない?」と、尋ねると、
「ここは街のバーとかより賃金もらえるし環境は良い、そんなこと考えないで働いてりゃいいんじゃない」
と、あっさりと割り切った返答が返ってきました。
それもそうだと思いましたが、もっと不思議に思ったのが、我々の様なバイト達の役割を振り分ける人事担当が黒人女性だったということです。
“人種間のことを分かった上で別けている”
と、その時はっきり分かりました。
ここイベントでは保守的な地元の実業家や経営者が多く来ます。なのでその場で働く人材配置には、それなりの“気配り”があっての判断だと理解できました。
人種差別は、“人種同士の争い”、あらわな“Hate”と思われがちかも知れませんが、この様に根強い人種間での“歪んだ格差”、“おかれてきた身分”、“歴史”というものは、そう簡単に解決できるものではなく、非常に複雑なことなのだと改めて分かりました。
ただ単に「黒人嫌い!」「白人嫌い!」という様なものでなく、長年に渡り浸透してしまったもので、はっきりと目に見えなかったりします。
これは未だに人種が限られている日本にいるだけでは理解し難い事ですし、同時にこれから国際化が加速していく日本だからこそ、学んでいかなければいけない事だと学生だった当初(90年代後期)感じたのを覚えています。
【人種のるつぼ、ロンドンタウン】
University of London Goldsmiths College
同大学の卒業生
Mary Quant(デザイナー)
Vivian Westwood(デザイナー)
Malcolm McLaren(パンクシーンの生みの親)
Damon Albarn(Blurのボーカル)
Graham Coxon(Blurのギタリスト)
その他音楽界、美術界、政界、文学界の著名者が多く在学していた大学
http://www.ranker.com/list/famous-goldsmiths-college-alumni-and-students/reference
多文化、人種、アートの坩堝のロンドンを捨てきれず、イギリスの大学へ編入学しました。
Millennium (2000年)を境目に、ロンドンの社会やアートシーンは大きく変わろうとしていた時期でした。
—古い発電所がTate Modern美術館 へと改築される
—Millennium Domeが建つ
—ロンドンを見渡す事ができる巨大な観覧車、London Eyeができる
—市役所とは思えないほど芸術的なCity Hallが建つ
—大規模なウォーターフロント金融街、Canary Wharfの再開発
日に日に過去記憶していたロンドンの形が近未来化していくエネルギーを体感できるとてもエキサイティングな時期でした。
グリニッヂ天文台で有名な観光名所にあるアートギャラリーでバイトを始め、卒業後もそこで雇用してもらいました。
そこには地元の人だけでなく、ヨーロッパ各国、アジア諸国からも大勢のお客が訪れ、日本人もたまに来る事もありました。
そのギャラリーで体験できた事は、“地元との繋がり”です。
毎週末その“地域ビジネス”で働いていると、学生同士だけの付合いでなく、地元の人達との交流が増えます。同じシフトで働いていたのも地元の60代のアーティストでした。彼はカラフルな絵画を描いていて、その作品も同ギャラリーで販売していました。
何十歳も先輩の彼から70年代の華やかなロンドンの話しを聞いたり、友人を紹介してもらったり、イギリスはパブ文化ですから、仕事後には1杯飲みながら交流を深めました。
その他にもグリニッヂという観光名所で仕事をしている周りの事業主の人達とも知り合えました。
そしてほとんどの場合、私がその現場で唯一の日本人なので、多くの人が私を通して日本について聞いてくるという事がありました。
この様な交流により、“己とは?”という事に自問自答していく必要がありました。
当初、既に海外で生活している期間の方が日本で居た年数より長くなりつつあった私は、かなり内面での葛藤がありました。
考え方はすっかりWesternized (西洋化)されていたからです。
同時に、思い出に残っている日本は子供の頃の事ですし、しかも実家が小豆島という… 島!なので、実際そう私が話すことが“日本全体”を指していいのだろうか?と非常に不安でした。
逆に、では私が“欧米人”なのか?と自問してみても、それもまた違いました。未だに“日本人だったらこういう事言わないのにな〜”と思ったり、“これは日本だったら非常に失礼にあたるな”と思う様なこともその頃でも感じていました。
その様な“日本人的”な判断は、より私を海外生活の深いところへと連れて行ってくれました。なぜなら、その様な“日本人的”な振る舞いや対応は、やはり世界レベルで丁寧で、マナーが良く受けとめられる場合が多いからです。その様な時“日本人でよかったなぁー”と思いました。
その様な多くの人との交流により、“では、自分はいったいどの様な人間なのか?”という自問自答をする様になります。これは、多くの留学生や海外在住歴がある方が経験することだと思います。
【The City of Tokyo】
帰国後、日本アニメーション株式会社(銀座)という、日本では老舗アニメ制作会社の国際部で働きました。そこで改めて“経験”という重要さに気づかされました。今回は“ビジネス経験”です。この部署では、海外のテレビ放送、商品化、キャンペーンで使われるオリジナルアニメ作品の版権ライセンス全般を管理していました。
入社当初から“英語力”だけには自信があった私は調子に乗っていた様に思われていたでしょう。そう思われても仕方ありません。私は上司より遥かに英会話力はありました。なので、すぐ仕事だってできるだろうと勘違いしていましたし、その様に映っていたかも知れません。
ただ現実は全くの反対…
いくらたっても自分のクライアントはつきませんし、コレスポンダンスが途絶えたりする様なことも多くありました。
“なぜ上司にはお客がいっぱいいるんだ!?”と悩みました。
その差の理由は“経験値”でした。
長年に培った“経験”が“信頼”に繋がっていたのでした。
長い間付合ってきたクライアントから抱かれた揺るぎない“Respect”があったのです。
痛感したのは、語学力も大事だが“経験から生まれる信頼性”の強さです。
それに気づいてから、“ビジネス交渉”より先に、“相手を知ること”、“相手を気づかうこと”に取り組みました。
会社を離れた今でも、その教訓とそこから得た人脈は一生残ることでしょう。
帰郷して独立した理由も、その“様々なシチュエーションで応用できる英語力”と“経験から生まれる人間力”をどんどん周りに活かすためです。
“人生の学び”には終わりがない。
だからこそ大変ではありますが、
多くの人達が世界での体験をシェアし、可能性の広い生き方へ導くことが私の事業の使命だと思っております。